2026/05/21 17:19

   紹介文
第一部
時は、永正元年(1504)、思いもよらず隣国である備中の久日義光に攻められた和辻政信。
義光とは戦いたくなかった政信だが、致し方なく攻め滅ぼす・・・・・。
それを義光殿の奥方、百合殿に詫びる政信であった。
その後も戦の危機は迫るが、近隣諸国の大名との縁組みを進めてゆく政信。
果たして平和は保たれるのか・・・・・。
第二部
時は元禄11年(1698)、第5代将軍、徳川綱吉の治世における、備前の国、岡山藩、第2代藩主、池田綱政公の治める岡山城下に、空穂無刀流の道場があった。
師範代の花房龍之介と、その妻、美代、そして4人の子供たち。
師範の空穂清史郎とは親戚同然の間柄であった。
やがて御前試合が開かれるのだが、柳生新陰流、北辰夢想流、小野派一刀流、宝蔵院流槍術、そして空穂無刀流。
空穂無刀流の無刀の構えとは・・・・・。
そして勝敗の行方やいかに・・・・・。
(この作品は、400字詰め原稿用紙145枚の作品です。)

    はじめに

 平治の乱で源義朝を破った平清盛が義朝の側室、常盤御前を妾にするのをテレビドラマで見て、「清盛、それはないだろう。武士の情けはないのか・・・。」と思ったのが執筆の動機です。
  

   第一部

   一 戦

   二 縁

   三 良きことも悪しきことも

   四 風雲急を告げる

   五 庵


  第二部

   免許皆伝

      幼い恋心

      予期せぬ出来事

   時の流れ

      主君

      御前試合





   時のうつろい
              藤本英明

  第一部
                            
   一 戦
                          
 「かかれーっ!」
耐えに耐えた政信が、ついに号令を発した。
兵たちは城門から傾れる様に山を下りながら敵をなぎ倒してゆく。
久日軍は一気に浮き足立った。      
「押せーっ!押せーっ!」
法螺貝を吹き鳴らす。
形勢は、たちまち傾いた。
逃げ惑う久日軍。
和辻軍の勝利は、もはや動かなかった。
軍勢のほとんどを失った義光は、ほうほうの体で山を下る。
「殿!追っ手が迫っております。
ここは、それがしにまかせて。
早く!」
「忠常、すまぬ!」
馬にまたがるや否や、田と山の間の道を一目散に高倉城へ取って返す。
やがて国境を越え、備中へ入った。
そうして何刻が過ぎたであろうか。
結局、城へ逃げ帰った者は、ほんの少数だけ、やがて高倉山は和辻軍に包囲されてしまった。
 ちょうど、その頃。
城へ戻って一息ついていた義光は、鎧を着けたまま床へすわり込んで悲痛な面持ちをしつつ・・・・・・・・・・・・。
「百合、ゆるせ!
残る手勢もわずか。
もはや、これまでじゃ。」
と、力を落として吐くように言った。
その心情を察してか・・・・・・・・。
「覚悟はできております。」
と、気丈に応える奥方。
更に義光は続けた。
「心残りは、そちと、幼い子供たちじゃ。
なんとか助けたい。」
「殿・・・・・・・・・・。」
「女、子供たちだけでも、なんとかならぬものか。」
ゆるがぬ形勢に義光は、無念さをあらわにするだけ・・・・・・・・・・・・。
冷え込みが深まり、すすきに夜露が宿って、月は無情にこうこうと輝いている。
城は異常な静けさに包まれていた。

 その月に照らされている麓の本陣では。
「一気に攻めましょうぞ!」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「一息に・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「殿っ!」
「重房、ここは、わしにまかせてくれ。」
「いかように、なされます。」
「和議を結ぶ。」
「和議・・・・・・・・・・。
和議とは、これいかに!
この期に及んで和議とは・・・。」
「ここは、わしにまかせてくれ。」
そう言いながら政信は静かに月を仰いだ。
軍議の場を離れて久しかった・・・。
 それから一刻もした頃・・・・・。
「殿ーっ!
書状が届きました。」
義光は、すぐにそれを受け取ると、わずかな望みを抱きつつ、それを見た。
と、見る間に大粒の涙がしたたり落ちる。
その涙を堪えながら・・・・・・・。
「政信殿!
恩に着る・・・・・・・。」
声にならない声を漏らした。

 翌日は、雲一つなく晴れ渡った。
高倉城は城門を開き、やがて白装束の義光が静かに出てくる。
辺りは張り詰めたような空気に包まれ、静まり返っていて、時おり、鵯の鋭い声が響いているだけであった。
その鵯が、ひとたび騒いだ。
そしてまた、静けさが戻ってくる。
辺りは何事もなかったかのように、陽の光を受けていて、鮮烈だった紅葉が終わろうとしていた。

 「わしさえ自害すれば、後はお構いなし。
所領も安堵するとのこと。
政信殿を信ずるしかない。
百合、子らを頼むぞ・・・・・。」
義光は、そう言い残して逝ったのだった。
 
  
  ひとたびは雲を呼べども天つ日の
   そそぐ光にただすがるのみ  
  
  
辞世の歌である。
そうして、和辻軍は引いていった。

 それからは戦が、まるで嘘であったかのような穏やかな日々であったが、傷痕は容易には癒えず、高倉城では政信の恩情に感謝しつつも戦戦恐恐、なんとか立て直そうと画策が始まっていた。
 一方、政信の居城、備前は小菅山の沢木城では、家臣たちの不満が、くすぶっていた。
「敵に情けをかけていては、後々、大変な火種を残すことになる。」
「そうじゃ。
それが心配じゃ。」
「おぬしも、そう思うであろう。」
「男は根絶やしにするのが掟、情けは禁物じゃ。」
こんな思いが渦巻いているのだった。

 そんな或日。
政信が、わずかな手勢だけを従えて高倉城を訪れた。
しかし、さすがに歯向かう者もなく、政信は百合殿と会見したのであった。
「ゆるされよ、百合殿!
この通りじゃ。」
そう言って政信は手を着いた。
驚いた百合は、あわてて・・・・・。
「なにをなさいます。
とんでもございません。
どうぞ、お手をお上げくださいませ。」
と、畏まる。
政信は、尚も続けた。
「義光殿が攻めてこようとは思わなんだ。
旗印を見た時は、我が目を疑うた。
戦が始まってからも、引いてくれ、たのむから引いてくれと何度願うたことか。
いずれは瑠璃を竹丸殿の嫁にと思うておったに・・・・・・・・・・・・・・。
わしの力が及ばなんだ。
義光殿に攻めさせたは、わしの不徳の致すところじゃ。
ゆるされよ、百合殿。」
百合は、意外な事の成りゆきに戸惑いを隠せないでいる。
「竹丸殿は八歳に成られたかな・・・。」
「はい。
菊丸は六歳。
由は三歳でございます。」
「これからじゃというに、お力落としじゃろう。
何か困った事があれば、なんなりと申されよ。
できるだけの事はする。
遠慮のうな・・・・・・・・・・。」
「ありがとうございます。
命を助けていただいた上に所領まで安堵していただき、重ね重ねのご恩情、厚く感謝いたしております。」
「いや、しかし、義光殿を助けられなんだ。
それだけは、叶わなんだ。
残念じゃったが、致し方なかった。
ゆるされよ、百合殿。
わしは出家する。
仏門に入って戦の犠牲になった者たちの菩提を弔う所存じゃ。
わしを許せぬであろうが、これが、わしにできる精一杯のところかもしれぬ・・・。」
そう言い残して政信は帰っていったのだった。
後に一人残った百合は・・・・・・・・・。
静かに庭を見遣りながら・・・・・。
複雑な面持ちでいた。
政信を許していいものか、確かに恩情はありがたい。
しかし、だからといって、にっくき夫の仇である。
果たして許せるものだろうか。
しかし、生きてゆかねばならない。
悲しい定めではあるが、子供たちの成長を楽しみに義光の分まで生きてゆこうと、心に誓う百合なのであった。


 和辻政信の家系は、源頼房を祖と仰ぐ源氏の庶流であり、のちに花房の姓を授かる。
花房龍之介は空穂無刀流、免許皆伝で長男、清之介は空穂家の養子となり、無刀流師範の跡を継ぐ。
 このお話は引き続き第二部でお楽しみ頂けます。




 時は、永正元年(一五〇四)。
今より遡ること十六年。
長享二年(一四八八)に政信と桔梗は結ばれた。
十一年間にも及んだ応仁の乱(一四六七~一四七七)が、ようやく収まったものの、足利将軍家の権威も地に落ち、それでも京都の復興が町衆の手で行われ始めてから十余年の此の年、加賀の国で総勢二十万人といわれる本願寺門徒が一向一揆をおこし、守護の富樫政親を高雄城に攻略、ついで能登・越中両国を侵す。
この頃、駿河の守護である今川義忠の側室、北川殿の兄、伊勢新九郎長氏は、その縁を頼って駿河の国に下り、やがて興国寺城主となった。
室町幕府政所執事、伊勢氏の出身で、後に北条早雲と呼ばれる、その人である。
入道して早雲庵宗瑞と名のった。
延徳三年(一四九一)、伊勢宗瑞は伊豆の堀越公方、足利政知死後の混乱に乗じて伊豆の国を席巻し、伊豆の国の朝比奈知明より八丈島探査の報告を受ける。
それから四年後の明応四年(一四九五)八月十五日、鎌倉に大地震発生、津波が大仏殿を破壊し、死者二百余人を数えた。
その後、北条早雲は甲斐の国に入るが、武田信縄と和睦し、帰還。
ついで九月、相模の国小田原城に大森実頼を破る。
そして六年後の文亀九年(一五〇一)九月、早雲は、またまた甲斐の国に入るが、このたびも守護、武田信縄に阻まれる。
その様な東国での出来事をよそにして、ここ西国では大内義興が細川氏に追われた前将軍、足利義植を神光寺に招くなど権勢を誇り、京の都に勝とも劣らぬ栄華を極めていた。
そのような中、吉備の国として栄えていたことのある備前・備中・備後・美作をも巻き込んだ恋があった。
今より十六年前・・・・・。

   二 縁

 政信は、わずかな供のものだけを従えて、城を抜け出した。
美作の秘湯を目指して・・・・・。
城主である父、信綱の目を盗み、見聞を広めるために身分を隠しての視察である。
「若、くれぐれもお気を付けください。」
重房が言う。
「うむ・・・・・。」と、政信。
やがて一行は備前と美作の国境を越え、美作へと入った。
雪である。
沢木城でも寒かったが、こちらは一段と冷える。
一寸ほども積もっていようか。
田畑も雪に覆われていた。
湯治場へ着いた一行は、何食わぬ顔で湯につかる。
「これがあるから美作は良いのう。」と、政信が言う。
「まったくでございます。」と応える重房。
身体の芯から温まる。
しばし寛いだ。
それから一行は食事をした。
すると、「この鮎の塩焼きは旨いのう。」と政信が言う。
「まことに絶品でございますなあ。」と、重房。
郷土料理に舌鼓を打っていると、何やら、それらしい女性が、やはり供のものを従え、お忍びのご様子。
「おたがいさまじゃが、やはり、分かるものじゃなあ。」と政信が感心したように言う。
どうやら萩葉城の姫らしい。
政信は、茶目っ気を出して近づくと、「一献いかがかな。」と酒を勧める。
「そなた、何者じゃ。」と、一同身構える。
只ならぬ空気が走った。
それぞれの手練れが刀の柄に手をかける。
これは身分を明かしたほうがいいかな、と、咄嗟に考えた政信。
「いや、失礼いたした。
お忍びのご様子で、差し出がましいとは思ったが、じつは、拙者も忍びでな。
萩葉城の姫とお見受けいたすが、沢木城の政信と申す、以後お見知りおきを。」
とのことで事なきを得たのであった。
「さようでございましたか、お忍びで、お城を抜け出されて・・・おっほっほっほっ!」
急速に仲が深まる。
姫はお城の話をし、政信も城の話をした。
「この季節、お城から見える城下は一面が雪で、それは美しゅうございますよ。」
「そうであろうのう。
我が城からの瀬戸内海の眺めも、なかなかのものじゃが。
そうだ、一度、姫を我が城に連れてゆきたいものじゃ。」
「わたくしも行きとうございます。」
「姫の城にも行きたいのう。」
「ぜひ、お越しくださいませ。」
「そうそう、あまりゆっくりもしておられぬのであった。
そろそろ帰らねば。」
「どうぞ道中、お気を付けてお帰りくださいませ。」
「姫も息災でな。
では、また会おう。」
互いに、すっかり意気投合して又の再会を約して別れた。
それが政信と桔梗の馴れ初めである。
それからも二人は密会を重ねた。
贈り物の交換もした。
政信は姫に、かんざしを贈り、姫は政信に匂い袋を贈る。
またの折には、政信は櫛を、姫は扇子を、それぞれ贈り合ったりしていた。
初めこそ密かであったものの、次第に大っぴらになってゆく。
ある時は、湯治と称して姫と示し合わせ、湯に浸かってのち、萩葉城へ赴き、御城主の井谷是近殿の持て成しを受け、しばしの滞在を姫と仲睦まじく過ごしている。
「政信さま、お城はいかがでございましょうか、お気に召して頂けましたでしょうか?」
「うむ、姫の御城は良いのう、姫がおるから一段と良い。
帰りたくなくなったぞ。」
「まあ、御冗談ばっかり・・・・・。」
「アハハハハハハッ!」
「おほほほほほっ!」
又ある時は、姫を沢木城へ招き、しばしご滞在頂き、瀬戸内海の舟遊びに仲睦まじく興じられたりもしている。
「どうじゃ、姫。
海は良いであろう。
波は穏やかで、島が点在しておる。
見てみい、水も綺麗であろう・・・・・。」
「はい、宜しゅうございますねえ・・・・・。
わたくしも帰りたくなくなりました。」
「わははははっ!そうであろう、そうであろう・・・・・。」
「おっほっほっほっほっ!」
もうこの頃には、お二人の行く末は、双方の城中で知らぬ者の無きまでに噂されていた。

 ところが、そんな政信に備後は笹賀瀬城の百合姫との縁談が持ち上がった。
しかし、その頃には、もう我が嫁には桔梗姫しかおらぬ、と心に決めていたものだから、父、信綱のたっての要望とのことなので政信はどうしたものかと思案に暮れた。
「お前を見込まれてのことじゃ。
笹賀瀬城主、頼重殿のたっての願いとのことじゃ。
百合姫をもろうてほしいとのう。
お断りできまい。
お前に好きな姫がおることは、わしも重々承知しておる。
じゃがのう。
こればかりは・・・。」との、父の言葉が重くのしかかっていた。
そして或る秘策を思いついたのだ。

 穏やかな日々が続いていた沢木城であったが、そんな信綱のもとへ知らせが届く。
「殿。
美作の萩葉城主、井谷是近が、我らが城に攻めてくる模様でございます。」
「うむ・・・。
面倒なことになったな。
さっそく手を打たねばなるまい。」
信綱は是近殿に会談を申し入れる。
幸いなことに、会談は直ぐに実現した。
あまりにも事が容易に運ぶものだと思いつつ信綱は会談に臨む。
「よう来られたな。
ささ、こちらへ、こちらへ。」と是近。
やけに上機嫌である。
事は昼食をはさんで行われた。
もちろん酒も出る。
とどのつまりが、和平を保つためには婚姻を結ぼうという事になった。
こうして、めでたく政信と桔梗姫の縁談は整ったのであった。
やむなく備後の笹賀瀬城主、村逗頼重殿の長女、百合姫との縁談は丁重にお断りをせざるを得なくなった。
信綱は四苦八苦。
またまた難題を抱え込んで東奔西走、頭を下げて回ったのであった。
その後、百合姫は備中の高倉城主、久日義時殿の嫡子、義光殿のもとへ輿入れしたのであった。

 それから十六年。
早いものである。
(百合殿には申し訳ないことをしてしもうたが、許していただきたいものだ。)
政信は常々そう思っていた。

 今、沢木城では政信の嫡男、月千代が、めでたく元服をして名を改め、正和と名乗っている。 
奥方、桔梗の方との間に最初に授かった子宝であった。
そして、その妹の藍姫は隣国播磨の渋坂城主、滝時盛殿の嫡子、時綱殿の元へ嫁いでいる。
ゆえに、時は乱世ではあるが、比較的穏やかな日々が続き、近隣諸国の百姓衆も野ら仕事に精を出して潤いのある生活をしていた。
また、政和は武芸に勝れていて、弟の影千代は、どちらかというと文芸に素養があるので、家臣の間でも、兄君は母親ゆずり、弟君は父親ゆずりとの見解があり、共に将来を嘱望されているのである。
 桔梗の方は細面の、どこかしっかりしたところのある感じで、どちらかというと、おっとりしている政信には似合の奥方といえた。
他方、百合の方は、ふっくらとした面立ちで優しい感じを与え、やはり義光殿には相応しい奥方ではなかったろうか。
いずれにしても御二方それぞれに、それなりの気品が備わっていた。
遠雷が轟いている。
いつの間にか、蝉しぐれが収まっていた。
それに、辺りも暗くなってきている。
しばらくすると雨になった。
叩きつけるように降りだす。
たちまち緑の葉が濡れそぼち、色鮮やかに甦ってゆく。
恵みの雨だ。
すべてが潤い、息を吹き返す。
一段と雨が強くなってきた。
その音に呼応するかのように、琴の音が響いている。
時に激しく。
また。
優しく。
打ち寄せる波のように。
寄せては返し。
寄せては返し。
その調べは、まるで乱世を思わせるかのようでもあった。

 政信は歌会を開いた。
それは百合殿をお慰めするのが政信の心づもりなのだ。
表向きはとにかく、百合殿をお招きした。
滞りなく歌会は終わり、遅くなったので、その日はお泊まり頂くこととなった。
夜更け、政信は床を抜け出し、百合殿にお泊まり頂いている離れの方へ、そおっと近づいてゆく。
目当ての部屋まで行くと、そおっと障子を開ける。
そおっと中へ入ると、百合殿の布団へ入り込む。
ぴくっと動いた百合殿。
そんなことも覚悟しておられる様子。
「百合殿。
わしじゃ。
政信でござる。」
「こんなことをなさって、よろしいのでございますか。」
「いや、一度、詫びねばならぬと思うておったのじゃ。
義光殿になりかわって、お慰めいたす。」
政信は熱く愛撫をして差し上げる。
百合殿は感激に打ち震える。
二人の交わりは火のように燃える。
政信は、ゆっくりと時間をかけて、お慰めして差し上げるのだった。

 時はまた十六年前に遡る。
季節は丁度同じころで、山中が、すだく虫の音に包まれていた。
あれほど盛んだった蝉の声も、いつしか途絶えていて、すっかり秋めいてきている。
丘に目立ち始めた芒が白い穂を靡かせ、秋を手招きしているようだった。
 美作の萩葉城主、井谷是近殿も、めでたい事は早い方がよい、とのことで、来春には祝言ということになり、ぱたぱたと事が運んだ。

 その冬は・・・・・・・・・・・。
近年にない豪雪だった。
もともと暖かい地方ではあるが、それでも美作では三尺五寸も積もったとか。
萩葉城も雪に覆われて、身動きとれなくなってしまったそうだ。
桔梗姫も、父、是近殿、母、茜の方との最後の正月を琴の調べと共に、穏やかに迎えていた。
「茜、この木もすっかり大きくなったな。」桔梗姫の誕生と共に植えた、樟である。
「そうですね。
速いものです。」
「もう、輿入れの時を迎えようとわな。」
廊下は寒いので、是近殿も茜の方も座敷へ入る。
大きく育った樟が雪を被っていた。
ときおり鹿威しの甲高い音が響く。
「桔梗が男の子の様に木に登って落ちたことがありましたねえ。
あのとき殿は一番に駆けつけられて、桔梗をそおっと抱いてやりましたねえ。
おてんばな子でしたから。」
「そうだな。
桔梗には、はらはらさせられどうしであったなあ。
遠くを見るからと言って塀に登ろうとした時には困ったぞ。
木刀を持つことが好きで、よく剣術の稽古をしておった。
和歌でも詠んでおれば良いものを、男には負けとうない、などと言いおって。」
「それが、すっかり女らしくなって、見違える様です。」
「そうじゃなあ。
お前に似て、美しゅうなった。」
音もなく雪は降り続く。
ときおり、しずる音がしていた。
桔梗姫は部屋に一人で、やはり、これまでの来し方を振り返っていた。
父上と毬で遊んだこと。
おてんばを母上に窘められたこと。
そんな時、いつも父上様が、かばって下さったこと。
懐かしい想い出が走馬灯の様に駆け巡ってゆく。
夜になって雪が少し収まってきた。
北国の寒い日々は長い。
春が待ち遠しいような、それでいて、いつまでも来ない方がいいような、そんな複雑な夜であった。

 婚礼の噂は、もう城下にも広まっていて、これを折に尚いっそう戦が起こらなければ、との期待もふくらんでいるようで・・・。
「お城の姫様も春には沢木のお城へ、お輿入れのようじゃなあ。」
「そうなんじゃとうなあ。
おめでたいことじゃなあ。
殿さんは、どうじゃろう。
やっぱり娘を手放すんは、寂しいんじゃろうか。」
「そりゃそうじゃろう。
お殿さんだって父親に変わりはないんじゃからなあ。
変わらんのじゃないん。
泣くかもしれんでえ。」
「泣くかなあ。」
「泣く、泣く。
うちの亭主も、そうじゃった。」
「そうかもしれんなあ。」
「わははははは・・・・・・・。」
「わはははは・・・・・。」
長屋では洗濯をしながらの井戸端会議に、花が咲いているようだ。
表の通りを大八車が、ガラガラと鈍い音を立てながら通り過ぎてゆく。
魚屋は天秤棒を担いで乾いた売り声を上げ、その横を、子供たちが鼻をたらしながら、すり抜けてゆく。
所々で軒からしずる雪が音を立てては、きらりと日差しを反すほどに、家並みは雪を置いている。
まわりの山は、一面の銀世界。
冬は未だ深かった。

 その頃。
沢木城下では、麦畑に積もった雪も二~三日で、もうみんな溶けていた。
城下は海に近く、海の幸にも山の幸にも恵まれ、古くから開けた所で、気候は温暖、災害も少なく、戦さえ無ければ申し分のない土地柄なのであった。
 政信は、物見櫓から城下を眺めながら、その先に広がる海に思いを馳せている。
備前の国では昔から、瀬戸水軍と手を結んできた。
彼らの助けがなければ、この国は治められないのだ。
対岸の讃岐の国との交易もある。
大小の島々が彼らの根城で、海賊と恐れられてもいるのだが、味方につければ、これほど心強いものもない。
瀬戸内海には多くの島々が点在して、じつに穏やかなのだが、潮の流れの早い所も多く、なかなかの難所なのだ。
それらを知り尽くしている水軍は、やはり大切なのであった。


 頬を吹くこの春風の心地よさ
      物見櫓の窓に尊む

              
婚礼を前にしての、政信の詠んだものであった。 

 その頃、桔梗姫は僅かな供の者を従えて、湯治場にいた。
美作には秘湯があるのだ。
着物を脱ぐ桔梗姫。
姫君は隠す必要もないのであろう、美しい薄桃色の肌を、惜しげもなく晒す。
そうして、お湯に浸かるのだ。
お付きの女性たちも、一緒に入ることを許されているので、美しい女たちの裸ばかりである。
立ち上る湯気の向こうに、綺麗な女たちの姿態が揺らめく。
裸の、女、女、女。
まさに楽園であった。